北木石の先人達

畑中平之丞(天保14年~昭和5年)

店舗14年、豊浦に生まれました。平之丞は、花崗岩を掘り出す方法を考えたり、売り先を見つけたりして、現在の北木島の石材業の基礎をつくり、北木島の石を全国に知らしめた人です。

また、石を全国に売るためには、郵便局がなければならないと考え、明治31年に北木島郵便局をつくり、初代局長になりました。

1979年(昭和54年)畑中平之丞顕彰事業として石像が竣工されています。その年に北木石材商工業組合も設立されています。石像の下には下記のような功績が刻まれています。

報恩顕彰の誌

畑中平之丞翁は、天保14年、北木島豊浦に生まれ長ずるに及び全島に露出する花崗岩に着目 孤島に生きる住民の富は この眠れる 宝石を発掘し、売り出す以外にないと確信し一念発起その開発に私財を投じ、採掘および販路の拡張に日夜苦心惨憺の末、児島湾大干拓、横浜正金銀行、日本銀行本店、各神社の大鳥居、等の大事業に豊富な石材供給に成功 ついに全国的に「北木みかが石」の名を高らかしめ本島の石材採掘 販路開拓の祖として 小田郡誌にもその名をとどめており石材産業界、今日あるの基礎を築いた先覚者である。昭和5年5月、翁逝いて50年報恩の念禁じ難く、吾等同志相寄り茲に 翁の石像を建立し、永く、その遺徳を顕彰する。昭和54年5月1日 畑中平之丞翁顕彰会



鶴田蓑輔(明治21年~昭和50年)

明治21年、金風呂に生まれました。戦前、笠岡町長を勤め、岡山県議会議員や議長にもなりました。北木島に電灯をつけることに力を尽くしました。また、畑中平之丞が石を掘り出したり売ったりするために作った畑中有限会社の後を継いで、北木島石材会社をつくり石材業を発展させました。

馬越儀三郎(明治31年~昭和54年)

明治31年、愛媛県の伯方島に生まれました。その後、北木島にやって来て石丁場を始めました。昭和28年ごろから、北木島では、電力で動く削岩機を使って石を掘るようになりました。しかし、白石・北木間が海底送電で電力が少なかったために、沢山の削岩機を使うことが出来ませんでした。馬越儀三郎は、電力会社と粘り強く交渉し、白石。北木間の送電を高架線によるものとし、それまでの5倍近い電力を送ってもらえるようにしました。それにより石を掘り出す量は何倍にも増えました。